「海に寄せる歌」の歌詞について
作詩 三好達治
松下 泰久
 
1 「砂上」 (昭和9年7月刊行された第三詩集『濶ヤ集』より)
 昭和7年3月、胸部疾患に心臓神経症を併発、喀血し入院するが、3ヶ月後退院。友人の家に身を寄せ養生。昭和8年7月志賀高原に転地療養に出かけ、信州上林温泉に行き、そこが気に入り二年余りをそこを中心に過ごす。この詩集に収められた詩の大半は、高原の自然を題材とした明るい雰囲気のもの。昭和9年1月、東京にて佐藤智恵子と結婚し、10月には立原道造らと詩誌『四季』を創刊。理知的かつ叙情的な詩で、その後約10年間詩壇の主流となる。
 「砂上」はさわやかな高原にて、よき思い出としての過去の「海」の回想を歌ったもの。
 
2 「仔羊」  (昭和10年刊行の第四詩集『山果集』より)
 『南窗集』『濶ヤ集』に続く、三冊目の四行詩集。発哺で療養中、体調のすぐれないで仕事も勉強もできず、なかなか「うすっぺらい」四行詩から抜け出せない状態を、師萩原朔太郎から方向転換を試みるよう指摘された中でできあがった詩集の冒頭の作品。
 自然の景物に敏感に反応し、詩作に取り組む作者の姿を「仔羊」に重ね合わせたい。
 
3 「涙」  (昭和11年『中央公論』に発表)
   (昭和14年7月に刊行された第六詩集『艸千里』より) 
 五七、七五調のリズムを中心として、同じ語を繰り返し重ね心地よい調子を持たせた、そして、二行を一つの聯として、行間に余情を持たせつつ11の聯で構成された作品。
 父である詩人は、ある朝小さな我が子の睫毛の間からこぼれ落ちる涙を見、そしてその涙を手の上に受け、人としての「温かい」ものを感じる。そしてその涙は、父の手を濡らしたようにさらに父の心を濡らすに至る。
 父の心を濡らしたものとは何か。それは、今眼前にある小さな命に至るまで悠久の時間つながってきた祖先からの命であり、まさに累々と続いたDNAそのものである。そして詩人は知性的に命を受け止めるとともに、そこに郷愁を感じる。あたかもそれは「遠い」昔に生きた祖先からの「温かい」手紙であるように。
 
4 「この浦に」「既に鴎は」「ある橋上にて」   (昭和16年10月刊行の第七詩集『一点鐘』より)
 この詩集の作品は、文語詩と口語詩が混じった、情緒的に回想を歌ったものが多く、特にこの3作品は、この詩集の中でも「海六章」と呼ばれる6作品の中のもの。
 達治は当時小田原に住み、一日中眼前に広がる海を眺めて暮らし、それを詩に歌った。
 「この浦に」は、「この入り江に私がいなければ一体誰がこの夕べの波の音を聞くというのか、この入り江に私がいなければ一体誰がまだ朝早い浜の草草を目にしようというのか」といった意味。自然を具体的な言葉として表現できる、詩人としての作者のプライドでもあろう。その詩人の目に映り、耳に聞こえたものはいったい何だったのだろうか?
 「既に鴎は」は、昨日と今日の対比によって、詩人として眼前の「海」をどのようにとらえているか歌ったもの。昨日詩人の心象を言葉にして歌ったものも、今日にはもはや過去のものとして空しく消え去り、今日の詩人にはその心象は明確な言葉とはならず、ただ心の中の憂いや寂しさ、人のはかなさなど様々に心に去来するものも繰り返し寄せては返す波の中に収斂されてしまう。海はその詩人の混沌とした心象の象徴ではないか。
 「ある橋上にて」は、海を眺めつつ、自然の中で感じる無常感を淡々と表現したもの。
 
5 「鴎どり」  (同『一点鐘』より)
 全体は4つの聯からなる詩。各聯は鴎の描写を変化を持たせながら、それを作者自身と結びつける回想のリフレインによって強く印象づけている。
 烈風吹きすさぶ砂丘の上を飛ぶ鴎の、あたかも荒々しい運命の荒波にもまれながら、しかしその荒波に逆らいながらも何かを求めて飛ぶ様子に、かつての作者自身の姿を重ね合わせている。若き日々、誰しも自分の意志で自由に生きようともがき、うめく。しかしいくらあがいても、叫んでも空しく運命の荒波の音の中にかき消されてしまう経験を持っている。その失意を懐かしく思い起こすとともに、現実の無情を感じずにはいられない。
 第3聯の「春まだき日をなく」、まさに「青春期」であり、その青春期の精一杯の雄叫びも運命の轟きは消し去ってしまう。
 第4聯、空しい運命への抵抗の中、まだ叫び続け、自分の理想像、たとえば未来の自分を夢見たその姿、それが詩人の言う理想の「人の名」であろうが、それもまたただ轟きの中に消え去るしかない。人間は永遠に運命に弄ばれ続けるしかないのか!