「わがふるき日のうた」の歌詞について(Wordのファイルはこちら
松下 泰久    
 
1 「甃のうへ」  (昭和5年刊行の処女詩集『測量船』より)
 達治自身が「もともと架空、どこかの場所に実在するどんな寺院をも、それは指していない」と述べているが、清岡卓行氏のいう「両腕のないミロのヴィーナスが無限の美しい腕を想像させる」のと同様、鑑賞する者に、桜の舞う美しい大伽藍を無限にイメージさせる作品である。
 「翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり」までが前半。うら若き少女がおそらく二人ひっそりと語らいながら境内の敷石の上を優しく歩き、その足音は鉛直方向に空に響き、さらに時折目を上方にあげながら、作者の前を通り過ぎてゆく。少女の進行と美しい花びらの風に舞う「横方向」の動きと足音の響きと少女の視線の「縦の動き」が立体的な空間の広がりを醸しだし、美しく流れる動きと、それでいて静寂な独特の空間を描いている。
 後半、作者の視線は伽藍の四隅の廂につるされた風鐸に移る。前半の「動き」とは対照的に、境内のひっそりとした情景にふさわしく、静かに存在する。また、少女の華やかさと対照的に、作者は視線を敷石の上の自分の影に向けながら、一人で静かに歩を進めていく。「我が身の影をあゆまする」という描写は、「意識して歩かねば、ともすれば、立ち止まって物思いに耽ってしまう」という作者自身の大変内省的な状態を表現しており、この青年の愁いが少女たちとまさに好対照である。
 
2 「湖水」  (同『測量船』より)
 湖の畔で水死者を捜索していると思われる場に作者が遭遇したという設定の詩である。
 何故沢山の人が集まって、舟を出しているのか?状況的には水死者に違いない。その捜索のための舟だ。
 現場の湖には、人が沢山居合わせているにもかかわらず、詩の中にはその人々の発するざわめきは一切聞こえてこない。ただ聞こえてくるのは、捜索する舟の艪や櫂の音のみ。風も生ぬるく、そよぐ音も聞こえないであろう。その代わりに風のせいで水草や蟹の臭いがするばかり。
 早朝に溺れ死んだのではないか、でも夜が来たのにまだ見つからない。死体が発見されれば鳴るはずの警笛も鳴らず、本当に水死の捜索かどうか確信のないまま、「誰かがそれを知ってゐるのか」「誰かがほんとに知ってゐるのか」と水死という自分自身の想像に疑いを持ちながら、状況を見つめる作者。
 事態が不明なだけに、一層不気味に湖は冷たく静まる。おそらく水中に死体も冷たく絡まったまま。
 
3 「アンファンス フィニ」(同『測量船』より)
 達治の幼年期の愛惜が、様々な「もの」に象徴されている。「海の遠くの島」「椿の花」「鳥かご」……それらは、みんな幼年期の思い出の象徴であろう。しかし、それらの記憶は、決して鮮やかなイメージとして甦ることはなく、記憶の断片として懐かしく甦り消えていくだけである。それは、決して鮮やかなカラー写真ではなく、古い本棚から見つかったセピア色に変色した写真のような、ほんわかと懐かしい数々のシーン。かつて、(それは自分自身との間であったかもしれないが、)誰かと交わしたした「約束はみんな壊れ」、「海」や「雲」「地球」「空への階段」に象徴される作者自身のかつての大きな夢も破れ去った今、「大きな川」が過去のすべてを押し流して、その「あわれな私」ときっぱりと訣別を促すように、「さあ僕よ」と自分自身に呼びかけている。
 
4 「木兎」  (昭和16年刊行の第七詩集『一点鐘』より)
 昭和16年9月より萩原朔太郎の後任として明治大学文芸科の講座を担当することになり、10月にこの詩集が刊行される。この「木兎」の中で、「お前の歌を聴くために 私は都にかへってきたのか……そうだ」という行があり、また「十年の月日がたった (中略) 一つ一つ 私は希望を失った」とある。
 『一点鐘』までの「十年」間とはどんな時期だったろうか。
 昭和7年達治3月、達治自身、胸部疾患に心臓神経症を併発し東京女子医専付属病院に入院、その月の24日親友の梶井基次郎を肺結核で失う。昭和9年1月佐藤智恵子と結婚、7月第三詩集『濶ヤ集』を梶井基次郎の墓前に捧げ、この後の約十年間詩壇の主流を形成することになる『四季』を創刊する。しかし、10月末父を大阪で失う。昭和11年には小石川に居を構えるが、13年に鎌倉へ移り、よく14年2月小田原へ移る。その3月に同人である立原道造を病気で失う。
 手に入れたものも大きかったが、失ったものもたくさんあった。達治の心の中で鳴き続けていた「木兎」は、昭和10年刊行『山果集』収録の「木兎」という同じタイトルの詩の中に既にその声が聞こえる。本来は「しゃれこうべ」である「木魚の声」と比喩されている。その声は故人を偲ぶ声だったかもしれない。
[参考]
   正午の村に 木兎が啼いてゐる あの岡の あの森で啼いてゐるのか
   あの森の 山寺の木魚の声ではあるまいな
   いや さうだ 木兎が啼いてゐる また啼いてゐる
   桐の花二つ三つ散る 古い火の見櫓に 半鐘の新しい村
 
5 「郷愁」(『測量船』より)
 形のない「郷愁」が鮮やかな「蝶」にイメージされ、それはひらひらと作者の思い出の世界を飛び回る。
 「私」の思い出は、海に近い港町にふと辿り着く。その時の「私」は、けだるい午後、読書しながら、壁の向こうに波の音を聞いている。読書に疲れ、本を閉じ、一室の壁にもたれかかりながら海を思う。隣の部屋では時計がけだるく午後二時を告げている。
 そして「私」の「郷愁」の行き着いた先は、「海」であり、「母」であった。
 東大仏文科出身の達治にとっては、漢字とフランス語を使った言葉遊びによって、「海」から「母」はいとも簡単に連想されたろう。漢字では「海」は「母」を含み、フランス語の「母」「mere」は「海」「mer」を含んでいる。このウィットに富んだ発想の基本にある「母」に対する「郷愁」は、この詩が収められた『測量船』の中にある「乳母車」にも表れているように思われる。その詩の最後の行「この道は遠く遠くはてしない道」とは、まさに「母」に対する永遠に続く「郷愁」ではあるまいか。
 
6 「鐘鳴りぬ」(昭和18年刊行の二番目の総合自選詩集『朝菜集』より)
   『朝菜集』は[『測量船』から『一点鐘』までの抄録])(昭和18年『文学界』5月号に発表)
 戦時下に発表された作品。「常ならぬ鐘の音声」は「戦いを告げる鐘」。「常ならぬ」とは仏教の言葉で「無常」、まさに「死」をイメージさせる戦いの「鐘の音」が鳴り響く。心の準備もなき日に突然、夢の中で鳴るならばいい加減に聞こうものを、それが眠りまだ覚めやらぬ早朝に現実に鳴り響く。
 その鐘に、生きて帰ることを期せず出征する覚悟で、暗き早朝の道を急ぐ。道とは言えぬ、草木の生い茂り、葉の上に露茂き野の果てをひたすら戦地へ赴く。しかしこの道を二度と戻ることもなかろう。
 かつては家族と共に聞いたであろう、誰かの出征を促す夜明け前の鐘の音は、今朝は自分の出征の番である。「さあお別れだ、家族たち、いつのものように我を待つな」と、家族に、そして自分自身の過去にも「つひの別れ」を告げる。
 士官学校時代に培われたと思われる国を思う精神が、詩人の責務としてのプロパガンダとも思える形として表れている。なお前年、師である萩原朔太郎を失い、この年、達治は妻子と離別している。
 
7 「雪はふる」(昭和21年刊行の第16詩集『砂の砦』より)
        (昭和21年8月第3次『四季』第1号に発表)
 昭和19年3月から昭和24年2月東京に帰るまで福井・三国にて疎開生活を送るが、その間に日本は敗戦を迎える。この事実は、それまでの詩人の人生を全く否定するものとして大きく彼を打撃したであろう。
 『万葉集』の大伴家持の歌に、
    「海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ」
と、「海中で死んでも、山中で草の生えた屍になっても、大君のそばを離れることはない。我が命を考えず大君を守って死のう」という、帝に忠誠を誓う「言立て」の内容の作品があるが、達治の場合、敗戦により守るべき対象も、それまでの自分を支えてきたものも、ともに失ってしまい、もはや潔く死を迎える大義名分すらない。
 「海にも野にも」死に場所を失った詩人には、帰るべき故郷も生活を共にする家族もなく、古き良き日々を回想することも許されない。残された道は汚れのない純白の雪に埋もれて死ぬことしかないのか。その「よき日」を自分は一体いつから願い始めたのか。今は静寂な死を待つのみ、という状況の詩である。
 あえて詩を口語に解釈し直すと、
  「死に場所を見つけるために海にゆきたい。
   野にゆきたい。帰る場所もない身となってしまった。
   懐かしく過去を振り返るな。
   自分の肩の上にはひたすら純白の雪が降り続ける。(その雪の下に埋もれてしまいたい。)
   このように美しく死んでいける日を一体いつから自分の死ぬ日と願っていたことか。」